特定不能の何か

医学と社会保障、国家、人生、感じたこと.

正しさの感覚を大切に

 骨折以降,3週間ほど休んで,先週から復帰してますが,1週間ほど仕事をやっています.パソコン利用がメインではあるものの,現場業なのでたまに力仕事とか細かい作業とかもありますが,いずれもじわじわやっていますが全然だめです.

 人を抱える場面があったのですが,完全にヤバい痛みが走ったので,まだまだ難しい.まあ骨って数週間ではくっつかないでしょうし.

 

 さて,こんなニュースがありました.

this.kiji.is

 私たちにとっては,もう昔からの議論だという感じではありますが,かつては羊水検査,今では血液検査で「簡単に」出生前診断(検査)ができる技術があります.

 検査は万能ではないから,出生前診断というのは厳密には正しくありません.検査にはニセの陽性・陰性があり,検査結果が本当にそうかどうかはわからないからです.99%当たるとしても,1%のミスで人が死ぬと考えれば,技術的にもどうかと思うと思います(100人いたら1人ミスで死ぬって結構ひどいですよね*1).

 そういう技術的な問題はさておき(非常に重要ですが),「命を選別しないで」とはどういうことなのか,あるいは,出生前診断をもう少し詰めて考えるにはどうすればいいかを少し,検討してみたいと思います.

 

「命の選別」とは何か

 残念ながら,私たちはすでに,命を選別しています.

 在胎21週までの胎児は,様々な理由で合法的に堕胎することができます.また,重度の障害のある人,予後が見込めない人,高齢の人は,様々な理由で「治療をやめる」ことが行われています.特に,一般の方の感覚でも,高齢の方に高度な医療は不要だと比較的自然に思われているのではないでしょうか.

 それらは,もしかしたら,胎児よりもはるかに「人らしい」人の命を,選別していることに等しいのではないかと思います.

 世の中の仕組みとして何らかの線引き問題が浮上するのは仕方のないこととして,一方で,自然に「これこれの命は軽く見積もって良い」とすることは非常に危険な感覚だと思うし,かなり気をつけないと嵌ってしまう罠だと思います.

正しさの感覚を失わないこと

 胎児の話に戻りますが,よぼよぼのおじいさんよりも,胎児の方がやはり人としての完成度が低いので,在胎週数が低ければそれだけ,それを「人」とみなすのが難しくなることは,医学的見地からも嘘ではないと思います.

 「堕胎は何週からセーフか」という,今日日言ってはいけないような問いを立てると*2,どこで線を引くかについて,科学的な情報が助けになるかもしれません.例えば,12週くらいで「人らしい形」になるとか,22週以降ならば今の医療技術で母体外で生かすことができるとか,26週から脳の活動が観測できるとか,そういった知識が知られています.

 今の法律(母体保護法)では22週が線引きですが,これは生かす技術の問題.これも悪くはないと思いますが,例えば人の形をした胎児を死なせていいのか,というのも自然な感覚として,疑問に思っても良いと思います.そうすると12週までは,「母体の意思決定権」が優先されるとか,12週以降は,母体の意思決定権より胎児の生存権が勝とか,そういう議論もあってよいのかもしれません.

 出生前診断は,子ども達のためでもあると思いますが,両親の意思決定権の行使だとも言えるように思うので,それならば12週までにこの検査を受けることは可能である,などの議論はできるかもしれません*3

 命の選別をしないで,というのは訴えかけるものがあり,また道徳的にも「正しい」ように思われますが,あまりに漠然としているようにも感じます.漠然としたままだと,前述の通り極めて片手落ちな,あるいは無自覚な命の選別に加担しかねないと思います.自戒も込めて.

 ちなみに,上記の話はだいたい以下の本を参考にしています.受け売りで申し訳ありませんでした!

基礎から学ぶ生命倫理学

基礎から学ぶ生命倫理学

 

 

*1:例えば新生児の死亡率は千対0.9です. 新生児の死亡率、日本は最低 ユニセフ調査 :日本経済新聞

*2:しかしこの問いは,実際社会上の線引き問題として非常に重要です.

*3:ただし,検査を受けられる週数は「技術的」に決まっていて,10週以降でないといけないようです.「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」についてのQ&A | 横浜市立大学附属病院